私が英語を覚えて良かったと思うこと

アフリカの生徒たちと
アフリカの生徒たちと

こんにちは。株式会社創伸の桐岡です。

 

ボーダーレスランゲージーズスクールでたまに保護者の方に通訳をしているあのオッサンです。

 

今回のブログタイトルに『私が英語を覚えて良かったと思うこと』とありますように、ここでは語学教室の運営を担う者の責務として私の個人的な体験を共有したいと思います。

 

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1. 英語を覚えたきっかけ

タンザニアのマサイ族と
タンザニアのマサイ族と

まず、私が英語を覚えようと思ったきっかけは「日本はクソ!さっさと海外に出たい!」という強烈な怒りからでした。

 

当時22歳の私は苦学生で、バイトで生活費と学費を払いながら大学院で研究をしつつ、教職課程を同時並行で進めていましたが、日頃の疲労は世間への恨みとして蓄積されていました。

 

そんな日々が1年ほど続き、私の日本を出たい気持ちが最高潮に達していた頃、ある程度の研究成果が出て、更に教員免許を取得していたので大学院を中退しました。そして海外青年協力隊に応募し、アフリカへ行くことになりました。

 

青年海外協力隊は現地への渡航費や生活費の支援に加え、渡航前の語学講習も無料で受けさせてくれる制度で、お金がなかった当時の私には最適な選択肢でした。

 

とにかく日本を出たいという一心で3ヶ月の語学研修は死に物狂いで勉強し、基本的な会話には困らない程度になれました。

 

以上が私が英語を覚えたきっかけです。これから英語を話せて良かった出来事について書いていきます。


2. アフリカ人からの学び

近所の子供たち
近所の子供たち

私が出会ったアフリカ人(ザンビア人)はミニマリストの極意を体現したような人々でした。労働は悪、と言わんばかりに仕事に対する優先度が低く、遅刻や欠席はしょっちゅうでした。

 

私は理科と数学の教師として中学校に勤務していましたが、「今日はもう疲れた」と言う理由で朝から歴史やら英語やらも代わりに教えて欲しいと頼まれたこともあります。

 

そんな彼らですがとにかく陽気でモノに恵まれていなくても大家族で毎日仲良く食卓を囲んでいました。

 

どのくらいモノがないかと言いますと、電気、水道、ガス、インターネットは無く、近くの井戸まで水を汲みに行き、炭を焚いて湯を沸かすような生活です。

 

日本だと不平不満が爆発しそうですが、アフリカではうつ病やいじめがなく村全体が家族のような繋がりで団結していました。幼い子どもの面倒を近所の人が見ることは当たり前でした。

 

モノが無いのに私利私欲に走らない彼らの人間模様は、モノにありふれても自殺が絶えない日本と対比的でした。

 

人生において本当に大切なことは何か?

 

そんなことをアフリカ人とじっくりと考える機会を与えられたこと、満点の星空の下で彼らと語り合えたこと、アフリカ諸国を旅できたこと、その経験を持って今を生きられること、これらは英語が話せたからこそ出来た貴重な体験です。


3. 世界の一流と働く

打ち上げの1枚
打ち上げの1枚

アフリカでの任務を終え、私はシンガポールの巨大な港(TTP1)を作るプロジェクトの通訳として就任しました。

 

世界の最大手の建設会社2社によるジョイント・ベンチャーで、世界中からその道のプロが集結していました。

 

1日に30カ国以上の人と会うこともあり、常に様々な言語が飛び交う中、いざ会議となると英語でまとまる所に感動したことを覚えています。

 

シンガポールではアフリカとは一変して、時は金なり、労働こそ人生、と言わんばかりにみんなバリバリ働いていました。

 

私は主に重機の操縦者、機械エンジニア、土木工事の監督、船のパイロット、造船所の関係者等の間に入って業務を遂行することが多かったです。

 

現場では工学系の英語を熟知していること、指導経験があること、過酷な環境に対するストレス耐性がずば抜けていること、誰とでも対等にコミュニケーションがとれることが評価されました。

 

毎日が日本の夏のような気候で、船の上という閉鎖的な所に多国籍の人間が集まり、一歩間違えると大惨事に繋がるという危険な作業環境において、海外の同僚から信頼を得られたことは私の誇りです。

 

これも全ては「英語ができたから」の経験で、英語を勉強して本当に良かったと思います。私が英語を話せないただの理科教師だったら、この経験は得られなかったでしょう。

 

逆に「単に英語を話すことができるだけの人」であってもこの機会には恵まれなかったでしょう。専門分野と英語が相まってこその体験でした。


4. 華の都から眺める日本

コロナ時のヴィトン本店
コロナ時のヴィトン本店

シンガポールで出会ったフランス人と結婚し、コロナの蔓延と息子の誕生を機にパリへ移住しました。

 

妻とは出会った頃から英語で会話しているため、家族に恵まれたことも「英語を覚えて良かったこと」の一つです。

 

ヨーロッパでは英語を話せる人が多く、パリの求人を見ると大抵の仕事は英語が必須になっています。

 

フランスなのでフランス語を話せないと苦労する面がありますが、英語だけでも普段の生活には困りませんでした。

 

一生パリで過ごす覚悟で移住しましたが、実際に住んでみると、治安の悪さ、衛生の汚さ、サービスの質の低さ、ストライキの多さ、物価の高さ、そして何より育児環境の悪さにより、日本の田舎に引っ越すことになりました。

 

日本に住んでいると気付きませんが、治安の良さ、清潔の良さ、国民のマナーの良さ、サービスの質の高さ、料理の美味しさ、モノの安さ、便利さ、四季の美しさ、文化と歴史の深さ、国内に観光すべき場所の多さなど、魅力が詰まりまくった国です。

 

世界には日本以上に住みやすい国はもちろんあると思いますが、日本はトップレベルであることは間違いないでしょう。

 

皮肉なことに、あれほど日本を嫌って海外へ移住し、20カ国以上を訪問して、日本の魅力に気付いて帰ってくると言う、なんとも遠回りな寄り道ができたこともまた英語のおかげだと言えるでしょう。

 

英語を習得したことで世界への扉が開けたことは間違いありません。


5. 様々な事業への貢献

クリスマスツリーの工作
クリスマスツリーの工作

日本に帰国してからは翻訳事業、語学教室の運営、貿易事業、通販事業、アフリカの再エネ事業などに携わることができました。

 

それぞれの事業の詳細は割愛しますが、これらは全て英語ができるからこそ携わることができました。

 

ボーダーレスランゲージーズスクールに通う保護者の方とお話をさせて頂くと、英語を習わせたい理由の1位は「英語ができると人生で得をするから」です。

 

幼いうちから英語に慣れていると間違えながらでも話すことに抵抗が無くなり、上達が圧倒的に速くなります。私が22歳から本気になって取り組んだことを、2歳のうちからじっくりと準備できるなんて羨ましいですね。

 

はじめはどうしようもない程に英語が下手くそで、外国人に全力で話しかけても空回りだった私でも「海外に出たい!」という気合だけでやればできました。純粋無垢な子供たちが、できないわけありません。

 

当校は入会費や年会費はなく、契約期間の縛りもございません。是非一度、お気軽にお問い合わせください。

 

▽公式ライン

https://lin.ee/AHRuyDoV

 

これで以上となりますが、保護者の方でこれを読んで何か質問がございましたら今度見かけたときに聞いて下さい。

 

それではまた。